瓦工場が起こしたニューヨークの奇跡
2014年、従業員わずか7名。沖縄の小さな町にある小さな瓦工場が、
11年後の2025年、アメリカ・ニューヨーク、6番街に直営店を構えることになるなど、
誰が想像できただろうか。
この物語は、沖縄の小さな瓦工場が起こしたニューヨーク6番街の奇跡ー。
第1章 瓦の終わりと、物語のはじまり
1944年、第二次世界大戦が終わりに近づく頃、中国大陸打通作戦に動員された日本兵延41万人の中に後に新垣瓦工場を創業する男、新垣菊信はいた。
翌年、タイで終戦を迎えた菊信は負傷した地元の戦友を肩に抱えながら九州経由で焼け野原となった故郷与那原に帰って来た。戦友はその恩を感じ「俺の妹を嫁にもらってくれ」ということになり、菊信と菊は結婚することになった。
ちなみに新垣瓦工場のロゴマークである「花瓦菊紋」は、軒先瓦に受け継がれてきた伝統模様をもとに、菊信と菊に共通する”菊”の意匠を重ねて図案化したものだ。
終戦から6年後の1951年、菊信は新垣瓦工場を立ち上げた。 その後、菊信の長男・信一が継ぎ、与那原町長選に当選したタイミングで次男の文男が3代目社長に就任した。
文男は20代の頃、当時珍しかった貸しレコードに目をつけ友人3人と起業、後にVHSの登場と共にレンタルビデオを開始、3店舗まで拡大させたビジネスマンとしての顔を持つ。
家業の瓦屋を継ぐことになった文男は、建築会社への営業に力を入れ一時業績を伸ばすが、そもそも屋根瓦の需要が年々減少を辿っている中に、公共事業の縮小が更に追い討ちをかけ、どうしても規模を縮小せざるを得なかった。
「父、菊信が作った窯に母が灯した小さな灯り。兄、信一や従業員達が薪をくべて育てた炎を自分の代で終わらせたくない。」文男はそんな思いでいっぱいだった。
ところが2004年、従業員の飲み会で生まれた一つのアイデアが全てを変える。
瓦をサンダーで削って薄くしただけの、まさに荒削りな一枚の瓦のコースターだった。
“瓦をコースターにするなんて聞いたことがない”
“こんな重いコースター、誰が買うんだ”
そう言われながらも、工場の片隅で文男だけが久しぶりにワクワクしていた。
特注のコースター製造機を作った甲斐もあって、水滴を吸い取る赤瓦コースターは、翌年、創業55年続いた屋根瓦の製造をやめる程のヒット商品となった。
屋根瓦を作る工場は「瓦のお土産を作る工場」として生まれ変わった。
消えかけていた窯の灯りが、思いがけないアイデアによって再び赤く灯り始めた。
第2章 新型コロナで借金地獄
赤瓦コースターは少しずつ売れはじめ、
アロマディフューザー、アクセサリー、円満シーサーと商品アイテムも増えていった。
沖縄で3店舗。そしてタイにも6店舗。
工場は小さくても、心は世界へ広がっていった。
しかし、世界は突然止まる。
2020年、新型コロナのパンデミック。
タイ6店舗はすべて閉店。
沖縄の売上も激減。
新工場移転も重なり、2億円の借入が重くのしかかる。
「あと2ヶ月で資金が尽きる。」
文男はこの頃から経営に携わっていた自身の息子で専務の拓史に伝えた。
拓史はすぐに街に出た。
かつては観光客で賑わっていた誰もいない国際通りをひたすら歩いた。
すると、シャッター街の中にひっそり明かりが点いている店舗を見つけた。
聞くと、今月で撤退を決めたらしい。
拓史はそれを聞くなり頭を下げた。
「大変失礼ですが、撤退作業を手伝いますので不動産屋を紹介してください!」
コロナ禍前は国際通りに空き店舗が出るなんて考えもしなかった。
もし空き店舗が出ても情報が表で出る前に周りの好調の店舗がツテを駆使して増店するからだ。
新参者には出店の情報すら回ってこなかった。
それが今は不動産屋さんから「今出店するんですか?観光客全然いないですよ」と心配されるほどだった。
不動産屋さんの予想は当たり、新垣瓦工場 国際通り松尾店の初月の売上は散々なものだった。
『新型コロナが終われば絶対にうまくいく』
そう信じて金融機関を説得し、できる限りの資金を調達した。
どんどん膨らんでいく借金を返すには、返済が始まるまでにできるだけ多く出店する必要があった。
新型コロナが終わるのが先か、資金がショートするのが先か。
出店は攻めでもあり守りでもあった。
感染者が増え緊急事態宣言が出ると観光客が減り売上が激減、解除されると少しだけ観光客が増え売上が上がる、観光客が増えると感染者が増えまた緊急事態宣言、、、。
そんな日々が続いた。
しかし拓史はそんな県外への移動自粛で騒がしかった中でも全国の観光地を飛び廻った。
結果、市場本通り、小樽、鎌倉、北谷2店舗目と、コロナ禍前ならほとんど空きの出ない好立地に次々と出店した。
国内のコロナワクチン接種が進んでいくと
沖縄県外の店舗が売上を伸ばし、なんとかゆらめく炎を絶やさずにすんだ。
“挑戦し続ける者にだけ、チャンスは微笑む。”
その言葉を証明するように。
第3章 コロナ禍の収束、再稼働する世界
拓史は鎌倉店の内装工事を終えると、息つく間もなく次の出店候補地を探しに旅立った。
当時の日本は、いまだコロナ禍の最中にあった。マスク着用が日常となり、政府は観光需要を下支えするため「GoToキャンペーン」と呼ばれる補助金制度を導入していた。しかしその効果もあり、主要観光地の一等地は良い条件の物件から埋まり、魅力的な出店余地はほとんど残っていなかった。
国内に空きがないのなら、次は海外だ。
そう腹を括った拓史は、2022年、2回目のワクチン接種とPCR検査を経て、人生で初めてハワイ行きの飛行機に乗り込んだ。
ホノルル市・カラカウア通りの横断歩道を渡った瞬間、視界が一気に開けた。
緑の芝生に伸びる椰子の木、その向こうに広がる白砂のビーチ。青い海を自在に乗りこなすサーファーたち、ビーチで寝そべる人々、そしてすべてを照らす眩い太陽――。ワイキキビーチの圧倒的な光景に、思わず息を呑んだ。
しかし、それ以上に衝撃だったのは、街を行き交う人々がほとんどマスクをしていなかったことだ。
世界はすでに動き出している。
このままインバウンドが本格的に再開すれば、優良物件は一瞬で埋まってしまう。
──今、動かなければ遅れる。
その焦りを見透かしたかのように、不動産会社から提示された賃料は、日本の感覚では到底考えられないほど高額だった。
拓史は、周辺店舗の商品価格、客数、店員数などを即座に分析した。
その賃料で黒字を出している店はおそらく存在しない――そう判断し、冷静に交渉を重ねた。数度のやり取りの末、「高額には変わりないが、成立させられない水準ではない」というラインで合意に至った。
その決断には、真珠湾を訪れた際に思い出した祖父・菊信の言葉も影響していたのかもしれない。
『戦争で死ぬことに比べれば、お金が減ることなんて大したことじゃない。』
契約意思を伝え一時帰国した拓史は、すぐにハワイ店の開業準備を開始した。
タイ・バンコクでの出店は、偶然出会った信頼できる現地スタッフの存在が大きかった。しかしハワイには知り合いがいない。ゼロから、自分たちだけで進める必要がある。
不動産会社には渡米10日前にスケジュールを共有し、必要な手配を依頼。
2022年6月29日、再びハワイへ向かい、現地口座を開設し、敷金を振り込んだうえで、7月1日に鍵を受け取り、日本同様DIYで内装工事を始める計画だった。
しかし直前になり、相手方はこう言い出した。
「火災保険証書が必要だ。社長が今カリフォルニアにいるのでサインができない。鍵も渡せない。週明けまでどうにもできない。」
そのまま、7月2日から独立記念日を含む土・日・月の三連休に突入してしまった。
──もしかして詐欺なのか?
思い返せば、ホノルル空港到着直後、屈強な税関職員に囲まれ、段ボール箱をすべて開封され、「不法就労するつもりだろう」と2時間半にわたり尋問された。あの瞬間から嫌な予感はあった。だが、事態はまさに現実となった。
「今日、連絡がなければ諦めて帰国しよう。」
7月6日。
情けない思いで帰国準備をしていたホテルの部屋で、突然、着信音が鳴った。
指定された空き店舗の前で待つと、連休前よりさらに日焼けした不動産会社の担当者が現れ、何事もなかったかのように鍵を手渡してきた。
本来なら文句を言いたかった。
しかし、ぐっと飲み込んで鍵を受け取り、扉を開けた瞬間、胸の奥に込み上げてくるものがあった。
──詐欺じゃなかった。これで、ハワイに店を出せる。
空っぽの店内を見渡しながら、安堵と嬉しさがないまぜになった感情が一気に溢れ出した。
感傷に浸る拓史に、不動産会社の担当者が「ビールでも飲みに行くか?」と軽く声をかけてきた。しかし拓史は、拙い英語で静かに答えた。
“I have a mission.”
(俺にはやるべきことがある)
こうして、予定より六日遅れではあったが、ハワイ店の内装工事がようやくスタートした。
第4章 挑戦すれば失敗もする
ハワイに出店しても上手く行くかなんて誰にも分からない。
でも私達はあの時分からなかったことを一歩踏み出すことで現実にしてきた。
20年前、こんな硬くて重いコースターなんて売れるわけがないと営業に行ったお土産屋さんから馬鹿にされたし、取引さえさせて貰えなかった。
初の直営店を斎場御嶽に決めた時も月数万円の家賃でちゃんと利益が出るのか不安でたまらなかった。
40坪の石垣島店を出した時は広すぎてお店がスカスカになると思い、急遽、紅芋タルトやちんすこうを仕入れてその箱で棚を埋めた。
また、閑散としていた通りに空きが出る度に通りの活性化を狙って次々と出店し、47(よんなー)アクセサリー屋さん、Okinawa Donuts Laboというカラフルなチョコレートをサーターアンダギーにかけたお土産屋さん、全てセルフサービスの無人のカフェ、誰もいないカフェなど、とにかく色々やった。(新垣瓦工場石垣島店以外は全てうまくいかなくて半年後に売却したが、47のアクセサリーは今の新垣瓦工場の売上の約20%を占める人気シリーズになった)
何かに挑戦すれば、成功もするが、失敗もする。
また、考えに考えて100年に1度挑戦すれば勝てるチャンスは1度きりだが、それを10年に1度挑戦すれば10回勝てるチャンスが来るし、1年に1度なら100回、1ヶ月に1度なら1,200回、毎日挑戦すれば100年で36,500回も勝てるチャンスが巡ってくる。まあ、当然、36,500回負けることだってある。
だが、それでも挑戦をやめてはいけない。
立ち止まっていては必ずライバルに先を越される。
事実、私たちがコースターを作った数年後に全国で珪藻土のコースターやバスマットが大ヒットした。
その3年後に現地の煉瓦工場で作ってるらしいと知人がお土産で台湾製のコースターをくれた。
タイ進出6店舗目を出した頃、50m先でうちと良く似たコースターをミャンマー人が半分の値段で販売していたし、視察で行ったマレーシアでもうちとそっくりのデザインのコースターが、うちとそっくりのパッケージに入って売られていた。
世界は広く、そして絶えず動いている。
だからこそ今、新垣瓦工場は世界へ挑戦する。
誰も追いつけないくらいのスピードで、多くの失敗を繰り返しながら。
第5章 失ったバンコク店を再び
2019年当時、新垣瓦工場はBangkok tile factoryという名前の直営店を、ここバンコク・アジアティークに6店舗展開していた。チャオプラヤー川沿いにある古い港倉庫を改装した巨大なナイトマーケット会場で、そこに10平米ほどの小さな店をドミナント出店していた。
しかし、2020年。新型コロナの影響は容赦なく全店を直撃し、私たちは営業継続を断念。すべての店舗スタッフを解雇せざるを得なかった。
それから3年が経過した。アロマオイルやパッケージの輸入を支えてくれていたOakさんに久しぶりに会うため、タイの事務所を訪れたその日。そこには、閉店時に売れ残った6店舗分のタイ限定商品が、埃をかぶり、高く積み上がったまま残されていた。まるで時が止まっているようだった。
「ここから必ず復活しよう。」
統括店長とそう誓い合い、その足でアジアティークへ向かった。かつて出店していたエリアを歩きながら空き区画を探すと、私たちを待っていたかのように3店舗分の広さの空きテナントがポツンと残っていた。迷いはなかった。私はその場で出店申込書にサインをした。
内装工事が動き出した頃、「Bangkok tile factoryを復活させます!」と求人広告を出したところ、かつて苦渋の決断で解雇したスタッフから「もう一度働きたい」と連絡が入った。その報告を聞いた瞬間の喜びと安堵は、言葉では言い尽くせないものだった。
そして迎えたプレオープン当日。
店の外で、突然ドンッという大きな爆発音が響いた。店内にいた私も、お客様も、一斉に外へ飛び出した。見上げた先で、バンコクの夜空に色鮮やかな花火が轟音を伴って広がっていた。
気づけば、周囲には様々な国籍の人々が肩を寄せ合い、それぞれの言語で歓声を上げながら、同じ花火を見上げていた。その光景を見つめながら、私は静かに確信した。
今日、ようやく、新垣瓦工場にとってのコロナ禍が終わった──。
第6章 そして、ニューヨークへ
2023年7月、文男は会長へと退き、代表の座を息子・拓史に託した。
1951年、創業者・菊信が灯した小さな窯の火種は、戦後の混乱を越え、幾多の試練をくぐり抜け、世代を超えて四代目へと受け継がれた。
その頃、日本国内の観光業界は長い停滞を抜け出し、再び活気を取り戻しつつあった。
ハワイ店はオープン二期目で黒字化。由布院、バンコク、台北、京都、函館と次々に直営店を開業し、コロナ前にはわずか3店舗だった直営店は、気づけば14店舗へと増えていた。
直営店の増加に伴い、これまで売上の柱だった卸販売やOEM製造、オンライン販売は中止する判断を下した。それでも、生産が追いつかないほど売上は伸び続け、スタッフの数も増え続けた。
挑戦の数だけ、見える景色は変わる。
会社の成長とは、誰かの勇気と決断、そしてそれを信じ支え続ける仲間たちの力によって拓かれていくものだ。
ーーー
ハワイ2店舗目を探すために始まった、何度目かのアメリカ出張があった。
空き物件を求めて移動を続けるうち、旅はいつしかロサンゼルス、サンフランシスコ、ラスベガスへと広がっていった。
二刀流の日本人メジャーリーガーの活躍に沸くスタジアムを横目に、「次の挑戦はどこにあるのか」を探し続けた。
そして――。
ーーー
2025年1月17日、拓史はニューヨークにいた。
「ここに出店したら、どんな事が起こるんだろう。」
その答えを知るために、契約書へ静かにサインを走らせた。
不動産会社が入居するマンハッタンの雑居ビル、16階。
窓の外では、一羽の白い鳩が冬空を切り裂くように翔んでいった。
ーーー
華々しい成功の裏側には、数え切れない失敗と撤退があった。
新垣瓦工場・本店をはじめ、農連市場店、アクセサリーショップ47(よんなー)、誰もいないカフェ、Okinawan Donuts Labo、バンコク・チャトチャック店、アジアティークにかつて存在した6店舗――。
閉店を決断するたびに、そこにいたスタッフとの別れがあった。
それでも前に進めたのは、ビニール袋に入れただけの一枚の赤瓦コースターを「おもしろそうだから」と仕入れてくれたお土産店や卸業者の存在があったからだ。
ビジネスモデルの転換で取引は終わったが、その温かい支援は今も確かに会社の礎となっている。
あの時、彼らが買ってくれた小さな勇気が、挑戦を続ける力になった。
ーーー
ニューヨーク出店の契約書にサインをしたとき、拓史の胸には不思議な静けさがあった。
恐れでも、昂りでもない。
ただ、次の景色を見たいという、純粋でまっすぐな感情だけがあった。
沖縄の片隅で生まれた小さな瓦工場は、いつの間にか世界へ歩み出す企業へと変貌していた。
だが、この物語はまだ終わらない。
むしろ、ここからようやく本当の勝負が始まる。
さぁ 次は何処へ行こうか
その答えを知るために、私たちは今日も歩き続ける。
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つづく
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※この物語は実在の人物、団体を題材にしていますが、一部描写には演出上の創作が含まれます。
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